高知医科大学の1年生になって、
ようやく慣れてきた頃、夏休みが始まりました。
そこで、僕にとって激震が走ります。
父の死でした。
父は4,5年前から入退院を繰り返していましたが、
僕が大学に入学した頃には寝付いていました。
最初の頃は、みぞおちの痛みが中心で、
近医では十二指腸潰瘍だろうと言われていました。
当時はMRIはまだなく、
CTも大きな病院で導入されかけた頃でした。
何回かの入院で、大きな病院に入院し、膵臓がんだとわかりました。
そして、前年、一度手術をしましたが、
腫瘍が大きくて手術することができず、
そのまま切開創を蓋をして終わったと手術のあと聞きました。
だけど、当時僕はまだ医学については全く無知で、
説明をうけても、全くピンときていませんでした。
その後父は、手術で体調が改善するものと思っていたこともあってか、
一時的には少し調子のいい時もありましたが、
僕が高知を受験するころには、再び病院で伏せっていました。
しかし、長らく入退院を繰り返していたこともあり、
また、僕も高校卒業後は金沢に下宿し、その後高知に行ってしまい、
長い休みの時にしか家に帰らないため、
何となく父の衰弱していく姿にピンときていませんでした。
・・・と、書きましたが、思い出しました。
父が亡くなる少し前に見舞いに行った時のことでした。
タバコを吸いに行った父が、
喫煙所から戻ってくるところに出くわしたことがありました。
僕の父はタバコがとても好きでした。
当時は、まだ現在ほどタバコの害について
やかましく言われておらず、病院の中にも喫煙所がありました。
父は入院中にもせっせとタバコを吸っていました。
その時の父は、かなり痩せ、頬もかなりこけてきていました。
その姿を見て、ぎょっと一瞬凍りました。
何か見てはいけないものを見たような感覚。
それが死への不安だったのか、
衰弱した父という存在を認めたくない感情だったのか、
おそらくその両方だったのでしょう。
なんとなく、今思えば、
そうした感覚を見ないでおきたいと無意識に思ったのでしょう、
僕の頭の中で、そうした父のイメージが封印されてしまいました。
さらに、大学が遠かったこともあり、
大学生活に埋没することで、父のことを考えなくてもすんでいました。
だから、父の死がそんな真近にまで迫っているとは思っていませんでした。
そんなわけで、夏休みに入って、実家に帰るにしても、
切迫しているとは気づいていなかったこともあって、
高知から電車と新幹線を乗り継いで、
京都から実家をすっ飛ばして金沢に行って、
金沢時代の同級生達と会ってから家に戻ったのでした。
”金沢ロス”を埋めたかったんですね。
のんきなものです。
金沢から実家に帰った日、
父は浴室で転倒したらしく、そのまま寝付いていました。
「帰ってきたよ」
と話かける僕に、父は返事をしましたが、
すでに朦朧とした感じでした。
おそらく、僕の帰りを待っていたのでしょう。
その後徐々に容態が悪化し、1週間くらいで亡くなりました。
ちょうど梅雨が明けたところで、蒸し暑い日でした。