僕が医師になるまで8

高知医科大学の1年生になって、
ようやく慣れてきた頃、夏休みが始まりました。

そこで、僕にとって激震が走ります。
父の死でした。

父は4,5年前から入退院を繰り返していましたが、
僕が大学に入学した頃には寝付いていました。

最初の頃は、みぞおちの痛みが中心で、
近医では十二指腸潰瘍だろうと言われていました。
当時はMRIはまだなく、
CTも大きな病院で導入されかけた頃でした。
何回かの入院で、大きな病院に入院し、膵臓がんだとわかりました。

そして、前年、一度手術をしましたが、
腫瘍が大きくて手術することができず、
そのまま切開創を蓋をして終わったと手術のあと聞きました。
だけど、当時僕はまだ医学については全く無知で、
説明をうけても、全くピンときていませんでした。

その後父は、手術で体調が改善するものと思っていたこともあってか、
一時的には少し調子のいい時もありましたが、
僕が高知を受験するころには、再び病院で伏せっていました。

しかし、長らく入退院を繰り返していたこともあり、
また、僕も高校卒業後は金沢に下宿し、その後高知に行ってしまい、
長い休みの時にしか家に帰らないため、
何となく父の衰弱していく姿にピンときていませんでした。

・・・と、書きましたが、思い出しました。
父が亡くなる少し前に見舞いに行った時のことでした。
タバコを吸いに行った父が、
喫煙所から戻ってくるところに出くわしたことがありました。

僕の父はタバコがとても好きでした。
当時は、まだ現在ほどタバコの害について
やかましく言われておらず、病院の中にも喫煙所がありました。
父は入院中にもせっせとタバコを吸っていました。

その時の父は、かなり痩せ、頬もかなりこけてきていました。
その姿を見て、ぎょっと一瞬凍りました。
何か見てはいけないものを見たような感覚。
それが死への不安だったのか、
衰弱した父という存在を認めたくない感情だったのか、
おそらくその両方だったのでしょう。
なんとなく、今思えば、
そうした感覚を見ないでおきたいと無意識に思ったのでしょう、
僕の頭の中で、そうした父のイメージが封印されてしまいました。

さらに、大学が遠かったこともあり、
大学生活に埋没することで、父のことを考えなくてもすんでいました。
だから、父の死がそんな真近にまで迫っているとは思っていませんでした。

そんなわけで、夏休みに入って、実家に帰るにしても、
切迫しているとは気づいていなかったこともあって、
高知から電車と新幹線を乗り継いで、
京都から実家をすっ飛ばして金沢に行って、
金沢時代の同級生達と会ってから家に戻ったのでした。
”金沢ロス”を埋めたかったんですね。
のんきなものです。

金沢から実家に帰った日、
父は浴室で転倒したらしく、そのまま寝付いていました。
「帰ってきたよ」
と話かける僕に、父は返事をしましたが、
すでに朦朧とした感じでした。

おそらく、僕の帰りを待っていたのでしょう。
その後徐々に容態が悪化し、1週間くらいで亡くなりました。
ちょうど梅雨が明けたところで、蒸し暑い日でした。