本:映画を見る眼2

この本の中で、「音声と言葉」についての章があります。

音声や言葉というのは、
今、僕の中で興味をもっているテーマの2つです。

この章の中に、こんな文章がありました。
>最近のテレビでは、喋っていることが文章になって、画面にテロップで表示されることが多くなってきました。より正確に、という狙いがあるのかどうかわかりませんが、文字に目がいってしまう分、表情から自分なりに感じたり、声の質といったことからなにかを類推したりすることもできません。(p.105)

確かに、これは大切なことだと思います。
太古の時代、まだ文字がなかった頃は、
物語は口伝でした。
そして、その口伝は一言一句どころか、
おそらくイントネーションや語るときの表情まで、
すっかりそのまま復唱するように
教え込まれていたにちがいありません。

それは、言葉としての事実よりも、
その行間にある意味を
イントネーションや表情で伝えることが、
本来の口伝の意味だったと思います。

伝える側も、伝えられる側も、
そうした言葉としての情報だけでない
もっと大きな情報を
共有していたのではないかと思います。

僕もテレビを見たときに流れてくる、
あのテロップがちょっとウザく感じていました。
なぜ、そう感じるのかが
今ひとつ分からなかったのですが、
この文章を読んでなんとなくわかりました。

確かにテロップが文字として流れると、
どうしてもそちらに引きずられますし、
なんか「こういう風に反応しろよ」と
強制されている様に感じられて
違和感として感じていたのかもしれません。

上の文章のあとに次の文章が続きます。
>デジタル化を視野に入れて、文字放送を始めたわけでもないのに、ここまで言葉が放送の中心に居座ってくると息苦しくてなりません。言葉を喋るスピードも以前にまして速くなっています。これは画像の速い切り替えとも関連していますが、速くなればなるほど私たちは、自分の考えで考えられなくなり、一方的にそれをただ受け取らざるえなくなります。(p.106)

これは危険なことです。

>(前略)見ている私たち、聞いている私たちはいろいろなことと感応し、言葉の隙間が拡大されていきます。ただ聞いているのではなく、感じながら考えながら聞いています。それに要する時間を用意しておかないと、逆に言葉は素通りしてしまうのです。

僕も患者さんに説明する時に、
たてこんでくると、
ダメだなと持っているのですが、
つい早口になります。
早口になればなるほど患者さんの頭に残らない
と気をつけなければいけませんね。

またこんなことも書いてありました。
>(録音技師の)西崎さんが私によくいっていたことは、音は入れていくことより、抜いていく事の方がよっぽど難しい、ということでした。音はいくらでも重ねることができます。ここでこういう音がほしいと思えば、画面にない音も入れることができます。一般的に、今の映画やテレビは、音が厚い、という傾向にあります。ノイズの多い現実をそのまま反映しているともいえますが、映画では劇場のあちこちから音が出て、その音が激しく回るものまであります。日常が雑音だらけなのですから、せめて映画では聞きたい音だけを聞いてみたいと思うのですが。(p.111)

最近はノイズキャンセリングの技術が発達してきていますが、
それでも日常の生活は色々な音にあふれています。
そしてそれらは、こちらの意志に関係なく耳に入ってきます。

>私たちは、耳が音を聞くと、その音源を探すという習性をもっています。音は具体でありながら、それが見えない分だけ、精神に直接入ってきます。遠い音を聞きながら、そのことで自分の心のありように気づいたりもしているのです。

音が精神に直接入ってくるというのは重要な性質です。
そのあたりのことは、また別の機会にお話したいと思います。