本:意識はいつ生まれるのか:蛇足

さて、とりあえず、
意識が統合能力のある脳から生まれるとすると、
まだまだ考えなければいけない問題があります。

一つは「こころ」の問題。
今回の一連の記事で最初の方で「意識」と「こころ」を
あえてごちゃ混ぜに書きました。
(というか、僕もよく分かっていない)

今回の著者の研究成果は意識が生じる源が、
脳の統合作用にあるとしましたが、
そのことと、こころの問題をどう関連づけて考えるか。
意識=こころなのか。
意識はこころに含まれるのか。
あるいはこころは意識に含まれるのか。

また、無意識の存在をどう考えるのか。
無意識というのはどこの働きなのか。

さらに、コンピュータに意識を持たせることは可能なのか。
もし、情報を統合させるプログラムができるようになったら、
コンピュータに意識を植え込むこともできるとも考えられます。

さらにさらに、全く話は違いますが、
情報が、ある所から生じて、
他の所に伝搬していくという考え方は、
現在のインターネットなどにも当てはめることができます。

そうすると、もし、インターネット上で、
ある情報から、一つの概念が自然発生的に
生み出されることがあるなら、
それは広い意味で意識と呼べるのか。

もっと身近な例で考えれば、
組織というものも、誰かが情報を発信して、
それが組織内に伝搬していき、
一つの結論を得るという形をとるなら、
それも意識と言えるのか。

意識という言い方はおかしく聞こえますが、
「組織は生き物のようなもの」と比喩的に言うことがある様に、
意思伝達と決定機構がうまく行っている場合に、
それは「意識」を持って生きていると言えるかもしれません。

そこで、現在流行の「忖度」ということが行われると、
組織の決定は全部承諾か全部否定All or Nothingになってしまい
組織としての意識は消えてしまうことになる。
つまり組織としては死んでいるも同然ということになります。

言いたいことを言い、
その多くの意見は捨てられる結果になろうとも、
情報経験として共有される社会
(それが社会が「意識」をもって生きているということ)
そんな社会であり続けて欲しいものです。

まあ、最後はつまらぬ、
説教臭い話になってしまいました。