僕が医師になるまで25

前回、大阪高知特急フェリーについて書きました。
そこで思い出をもう一つ。

1985年(昭和60年)の冬、僕は大学4年生でした。
当時、僕はラジオっ子でした。
以前、「話し方教室と滑舌の練習1」という記事でも書きました。

日本短波放送のパーソナリティー(大橋照子さん)の声が好きで、
その人の番組を毎週かかさず聞いていました。

ある日、大橋さんがご主人の都合で番組を辞め、渡米する、
それで最後の公開録音が大阪で行われるとのこと。

それまで大橋さんの姿は写真では見たことがありましたが、
実物には会ったことも見たこともありませんでした。
これは大橋さんに会う最後のチャンス!
そう考えた青年は、
特急フェリーを使ってはるばる高知から参加したのでした。
まあ、今で言う「追っかけ」みたいなもんですね。
あの頃は若かったですな。

公開録音のあとは大橋さんのサイン会でした。
僕は来ていたコートのフードにサインをしてもらいました。
今でもどこか探せば残ってるはず。

さて、そんな幸福なひとときを過ごしたあとの、
帰りのフェリーでのことでした。

大阪南港のフェリー乗り場にやってくると何やら不穏な雰囲気。
やけにガタイのいいスーツ姿の人がたくさん並んでいます。
それも、ちょっと怖そうな人達ばかりで、
ピリピリして、乗り込もうとしているお客さんを見ています。
なんだなんだ?

船に乗ってから気づきました。
そういえば前の日、暴○団の組長が撃たれたと。
えっ~!
ということは、組長が亡くなられて
棺がそのフェリーに乗っているということか!

この時も僕は少しビビリました。
これで抗争がさらに激化するだろうとも聞きました。
当時まだ「テロ」という言葉もありませんでしたが、
組長の棺が乗っている船だとしたら、
ひょっとしたら船ごと爆破されるかも!

生きている要人の乗った船を爆破するのならまだわかりますが、
亡くなった人の棺の乗った船を爆破してもしかたがありません。
まあ、今となってはお笑いにもなりませんが、
その時には何かあるかもと本気で考え怖かったです。

「ヤ○ザさんは、カタギの人には害を与えないハズ・・・」
なんて何の根拠もないことを心で反芻しながら、
ひたすら無事に高知に着くのを祈るだけでした。

今は便利ですね。
コンピュータでちょっと調べるとでてきます。
僕が同船した棺の主は、
組長と一緒にいた高知出身の若頭の人だった様です。