本:ポストコロナの生命哲学1 

1月は何となく寒さが身にしみました。
まあ仕事は普通にやっていますが、
今ひとつ何かさらなる+αになることができずにいます。

まあそんなこともあるよね・・・というか、
そんなことだらけで、最近は都合良く歳のせいにしています。
とりあえず目にとまった本でも読んでみることにしました。

『ポストコロナの生命哲学』 福岡伸一,伊藤亜紗,藤原辰史 集英社文庫


昨年まではそんなに感じなかったのですが、
今年に入って「少し前にコロナに罹っていた」という人が多くなりました。
それだけ普通に流行したということなんでしょう。

流行株がオミクロンになって比較的重症者が少なくなったとはいえ、
基礎疾患を持った方や高齢者の方々には
まだまだ怖い存在であることには変わりがありませんが、
それでも何とか前に進んでいかねばなりません。

今回のこのコロナ騒動をどう捉えて前に進んでいくのか。
まだ総括するには時期尚早かもしれませんが、
忘れないためにもその時考えたことなどを書き留めておくことも大切です。
情報というものにどう向き合うかみたいな、
具体的なことについても一度書いてみたいなと思うのですが、
この本ではもっと根源的なことについて話をさてれています。

新型コロナ感染症・・・今回のコロナに限らず、
新興感染症すべてでそうなのでしょうが、
今までなんとなくうまくやってきた社会に対して、
いわばダメだしを突きつけられた状態なのだそうです。

今までうまくやってきた社会・・・福岡先生はそれを
ロゴス中心の社会と捉えています。
ロゴスとは、論理であり、アルゴリズムとも言えます。
科学はロゴスの最たるもの。
これに対峙するのがピュシス(自然)で、
不確かさ、不安定さ、気まぐれさみたいなもので、
コロナはロゴス一辺倒の社会に対する
ピュシスのリベンジのようなものだと。

人間はロゴスの力によって、文明や社会、経済、あるいはさまざまな制度をつくり出していきました。そのこと自体は人間を発達、発展させ、社会を推進させたわけです。(p.31)

しかし、以前福岡先生はご自身の本でも書かれていますが、
生命というのは本来、
構築と破壊をバランスよく取り入れながら「動的平衡」を保ちつつ、
エントロピーの増大(形あるものいつかは滅びる・無に帰する)
・・・つまり時間の流れにあらがうことのできる唯一のシステムなのだと。

ロゴスの本質は論理であり、効率性、生産性、
そしてアルゴリズムによって達成される最適解であり(p.33)、
そうしたアルゴリズムでウイルスを捉えるならば、
ウイルスが体内に侵入すれば因果関係として病気になる、
だからウイルスは悪者だということになる。

しかし、ピュシス(自然)としての生命とウイルスのあり方は、
そのような一方的なものではななく、
もっと相互依存的で、お互いの益を出し合う、
利他的とも言える面もあるはずで、
それをロゴス的な見方にとらわれていると、
そうしたウイルスと人間の相互関係は見失われていまうのだと(p.34)。

ウイルスが感染することで何かいいことがあるのか、
「人類」という大きなひとくくりで言えば、
遺伝情報がウイルスによって取り入れられたり、
変化を起こすことで、多様性が生まれたりとか、
未知の出来事に対する解決策が生まれたりとか、
ひょっとしたらあるのかもしれませんが、
一人ひとりの「個」のレベルで考えると、
中々ウイルス感染で有益なことというのは、
今ひとつ見えにくい様な気もします。

まあ、中には症状の軽いウイルスに罹っておくと、
強毒なウイルスにかかりにくいなんてことはあるのかもしれません。

ただ、ウイルスに対する反応というのは個々人で違います。
今回のCOVID-19にしても、無症状の人から死に至る人まで、
振れ幅が大きく、そこがまたピュシス的なところでもあります。

今回のコロナから学んだ教訓を生かすとすれば、
アルゴリズム的に行き過ぎた制圧のやり方は必ず破綻し、
ピュシスがあぶり出されてくることを
覚えておかなければいけない(p.44)のだと。

ポストコロナを生きていく上で人間にとっての希望がどこにあるかと言えば、
その一つは、ピュシスを正しく畏れよということだと。
それは単に怖がるのではなく、自然としてのピュシスの前にひざまつきつつも、
もう一つのピュシス、自分自身の生命を信頼すべきだということだそうです。


次回に続く