小栗康平×鬼海弘雄 トークショー2

昨日のつづき

佐伯さん:
・一般受けする映像・写真は、クローズアップする表現が多い
・お二人の作品は、写真と映像の違いはあるものの、ロングショットの絵作りが行われている。
・これはテレビ的な発想とは逆方向。
・小栗さんの映像は、遠くから写したものが多いが、それによって俳優のたたずまい、歩き方、仕草などを通して人物観が浮かびあがってくるような距離感に加えて、風景や空間の美術といった周囲のディテールにこだわり作品を作られている。

鬼海さん:
・写真雑誌などが衰退して発表する場がなくなって、「私性(わたくしせい)」をだした写真でないと売れなくなった。
・大脳皮質で考えた映像には限界がある。
・時代を渡る写真というのは、何度もみなおしたくなる写真であり、それぞれの人が自分の中のものを反映させることで、それぞれの人の記憶に残る写真だと思う。いい作品というのは、小説でも音楽でも同じ。
・カメラで撮った偶然が必然になってほしいと思っている。
・いい作品というのは、江戸時代の人でも、100年後の人でも、それを見て、自分の中のもの浮かび上がってくるもの。
・いい写真というのは、何度みなおしても見飽きない。それは、見る人の記憶に響かせるもの。

佐伯さん:
・ユージン・スミスの話:彼はもともとライフという雑誌の写真家として有名になった。メディアが強い時期は、写真の採用や著作に対する権利はメディアが持っていた。このためスミスはライフと袂を分かつことになるのだが、その後来日して会社が依頼した写真を撮っているうちに、日本人の勤勉さなどをみるにつけ、日本人の働き方などに興味をもち、企業側が臨んでいるわけでない日本の風土などを織り込む写真を撮影するようになる。その中で水俣と出会い、自分の個人の生き方の表現と切り離せなくなっていく。
・雑誌媒体が力をもっていた時代は、伝えるということを媒体に発表するという仕事で食べていける時代であったが、媒体が衰退してきた時代、使命といったものを表現できる場がなくなって、商業主義に迎合しないと食べていけない時代になった。

小栗さん:
・映画はサイレントの時代とは明らかに違う。
・動きを拡大する、言葉をつなげる、人物を中心に起承転結を描く・・・これは商業化されたパターン:こうしたことを20世紀はやってきた。21世紀はそういうものが変わってきた。作り手の「私」と、みる側の「私」が、どこかで出会うはずなのだが、映画はそこが成立しにくくなってきた。

鬼海さん:
・何回も観ることのができる写真というものがあることを知ってびっくりした。
・映画はお金がかかるし、稼ぐことができないと次の映画が撮れない。
・それに比べると写真は、お金を稼ぐことを考えなければ、一生続けることができると思って写真を撮り始めた。
・今の時代、いくつでもシャッターを切ることはできるが、本質を狙った作品をとるにはシャッターチャンスを待つことが必要。
・写真家はいかに写らないかを意識し時から本当の写真家が始まる。
・作家として複数の作品をならべた時、つなげていくのは言葉。ポツンポツンと作品が離れたものではだめ。一つ一つの水たまりのままではだめで、川の流れにならなければいけない。

小栗さん:
・僕は、映画作りは逆に水たまりではあるべきで、川にしてはいけないと思っている。
・映画では数多くのカットがある。映画は一つ一つのカットが組み合わさって一つの映画になる。その一つ一つのシーンで俳優さんは役割を演じてくれるわけだが、それがどういう流れになっているかがわかると、方向性がはっきりして観客にとってわかりやすい。
・しかし、それをやってはダメと思っている。言葉の持つ方向性、強制されている時間というものを作ってはいけない。もう少し持続的なものを作りたい。

佐伯さん:
・映像表現の担い手には、ある意図をもって誘導する場合がある。それは広告表現であったりテレビ表現であったり。しかし、お二人は、そういうことではない偶然性と必然性の様な関わりの中に立ち位置を持っていると思っている。ただ、映像表現と写真表現では異なる。
・映画の場合、画面の隅々まで美術の制作からライティングまで何から何まで作り上げていく。このため、偶然性よりも圧倒的に作り手の意図がどうしても入っていかざるをおえない。
・それに対し写真は、鬼海さんがおっしゃった様に、何度何度も同じ道を通りながら、偶然性の種のようなものが自分の中に降りてくる、そういうタイミングを待つ時間が大切である。
・映画の場合、偶然性に頼ってはいけない非常に緻密さから入って行く。だからと言って、作り手側の意図に引っ張っていくのではなく、あくまで見る側が必然と偶然の出会いが生じるような空間を作らなければいけないと、小栗さんは考えていらっしゃると思う。
・鬼海さんの場合は、あくまで偶然性というものが表現の基礎中の基礎にあって、自分が欲しい絵を探し回ってそれを撮る、自分にとっての必然を積み重ねて写真集を作るというのではなく、偶然がアットランダムに撮られたものが積み重なって何らかのつながりや意味を考える、探る、読み解く、そういう時間が圧倒的に多い。
・お二人の映像表現は、作り手側が見る側を意図的な方向にひっぱって行こうとすることを極力排したところに作品を成り立たせなければいけないという意識をお持ちだと思う。

小栗さん:
・学生の講義の時に、簡単に映画がつまらないという学生に対して、画像に対して映っているものをすべて書き出せと言ってみる。それは、映画のフレームの中は偶然ではなく、映っているものはすべて意志を持っているのだと。一貫してある世界の見方を提示している。
・ただ、今の映画やテレビはそうではない。真ん中に大きく見えているものしか見ていない。絵(1ショット)に複数の意味があるとわからないと言われてしまう。
・ただ、ロングショットでの映像は、演じる役者さんの温度が上がらない。そうすると、観客もそれを感じ取ってしまう。

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うーん、わかる部分もありますが、なかなか難しいです。