本:ナニコレ?痛み×構造構成主義: 痛みの原理と治療を哲学の力で解き明かす2

昨日からの続きです。

一般的な診療科の医師は、
心身二元論に基づいて、身体を中心に診療を行うのが普通で、
心が絡みそうな場合は、相応の科に振って敬遠しがちです。

しかし、心療内科や精神神経科といえども、科学に基づいた学問であり、
最近では神経伝達物質をコントロールする治療が優勢です。

いずれにしても筆者は、
「科学的」な視点で扱えるのは機械論的身体のみであり、
”人間の持っている意味や価値の領域はいまだ科学で扱えない”
としています。(p.12-13)

そして、特に心理的な影響の強い慢性的な痛みに対処するには、
痛みというものが何なのか、どのように考えたら良いのかを、
根本的に考え直す必要があると筆者は言います。

そして、そのためのアプローチの方法として出てくるのが
「構造構成主義」という哲学です。

なかなか難しいです。
僕もまだ1回しか読んでなくて、ほんのちょっとしか理解できていません。
そんなんで、本の紹介なんて厚かましいと言われそうですが、
書いているうちにどこが分かっていないのかがわかってくることもあって、
とにかく書いてみています。

つまり、構造構成主義というのは、
痛みという症状を、相容れない相反する考え方、つまり、
身体的なとらえ方と心の関与する考え方の2つに分けて考えるのではなく、
俯瞰的なとらえ方で扱おうというものらしいのです。

ここでは、
「痛みは、契機-志向相関的に構成され続ける構造である」
と定義されるそうです・・・といってもチンプンカンプンですね。

まあ、僕が今のところ理解している部分は以下のごとくです。

痛みというのは、その人の持っている志向(傾向)によって違います。

志向とされるものには、
感受性(痛がり)、社会的背景(社会の閉塞感、医療不信など)、
うつ傾向があるかどうか、
アレキシサイミア(失感情症:感情を言語化できず身体症状としてしか表現できない)、
痛みを周囲に発信することで得られるものがあるか(オペラント学習)、
歪んだ認知(破局的思考、全か無か思考、過度の一般化など)があるか。
などなど。

これらは人によって大きく違いますし、
その人個人でも、時と場合いによって変化していきます。
痛みはこれらの志向によって
流動的に構成され続けている構造なんだというのです。

この「構成され続ける」というところが大切で、
逆に言えば変化しうるということであり、
患者さんにもそのあたりのことを、
(難しい言葉は使わずに)少しずつ理解してもらって、
複雑にからんだ糸を時ほどいていくように、
痛みの構造を変化させて、
日常生活ができるように指導していくというわけです。

・・・と、これで合っているのかな?
何せ哲学ですから難しいです。

この本は、
構造構成主義を用いて慢性痛症の患者さんの診療を行おう
という本なのですが、
この痛みのところは、
そっくりそのまま「耳鳴」に置き換えることが可能だと思います。

つまり、痛みにしても耳鳴にしても、
”本人の症状に対する意味づけを変えていくということ”
ではないかと考えました。
まあ、確かにそれが本当は一番難しいんですよね。