本:華氏451度

最近はfacebookの様なSNSやブログを通じて、
友人や同級生が、今どんなことをしているかとか、
何に興味を持っているかとか、趣味がどんなことかとか、
そんなことが結構わかります。

全く知らない人の行動には、特別自分も興味を持っていない限り、
余り気にとめないものなのですが、
知人友人がfacebookやブログで取り上げた内容だと、
なんとなく自分も少し興味を持ってくることがあります。

先日、高校の同級生が読んでいた本を紹介する際に、
『ディストピア』という言葉を使っていました。
それまで僕はディストピアについて何も知りませんでした。

「!? これは何かな?」
興味をもったら、ネットって便利ですね。
すぐに調べてみることになります。

<ディストピアdystopia>
ユートピア(理想郷)と正反対の社会。一般的には、SFなどで空想的な未来として描かれる、否定的で反ユートピアの要素を持つ社会という着想で、その内容は政治的・社会的な様々な課題を背景としている場合が多い。(Wikipedia他)

ディストピアというジャンルで
小説をとらえることが出来るそうなんですね。
いろいろなティストピア小説を紹介しているサイトがあります。
http://matome.naver.jp/odai/2139021725263790601

今回その中から、kashi451
この本を嫁さんに図書館から借りてきてもらいました。
『華氏451度』 レイ・ブラッドペリ 作,
宇野利泰 訳 早川文庫SF

近未来。人々は耳にはめた超小型ラジオや
大画面テレビを通して与えられるものを
無条件に受けいれ、
本なしで満足に暮らしていた。
むしろ政府は都合の悪い本は
徹底的に見つけ出し、焼き尽くす(焚書)ことで、
国民をコントロールしていた。
その焚書を執行する役人、焚書官モンターグはある日、本を焼き払った時に抵抗した老婆や、隣の家の少女のちょっとした言葉から、自分の仕事に疑問を感じるようになり・・・

この作品は1953年に書かれたものらしいですが、
全く古さを感じません。
むしろ、耳にはめた超小型ラジオだとか、
大画面テレビでバラエティを見るのが娯楽という様な生活は、
怖ろしくリアルに実現してきています。

そして、政府に不都合な情報は遮断され・・・
ま、そこは当たっているかどうかは分かりませんが、
近年、本を書く人、書きたい人は増えているけど、
本を読む人口は減少している(らしい)、出版業界が不況である(らしい)、
そんなことを聞くと、強制的な焚書こそありませんが、
人々から本が失われてきているという意味では
ブラッドベリが書いた世界に似通ってきているといえるのかもしれません。

さて、”目覚めた”主人公モンターグが、こんなことを言っています。

「ぼくたちが幸福でいられるために必要なものは、ひとつとして欠いてはいません。それでいて、ちっとも幸福になれずにいます。それには、なにかが欠けているからにちがいありません。考えてみますに、ぼくたちの手からなくなったものといえば、この十年か十二年のあいだ、ぼくたちの手で焼き続けてきた書物だけです。そこで考えました。この不備を補ってくれるのは書物ではないかと」(p.166)

モンターグが警察から追われて、逃げ切った先で出会ったのは、
本来、知識人であったけれど、知識人であったがために、
やはり政府に追われて都市郊外で生き延びた老人集団でした。

そこでは、驚くべき方法で書物を守り伝えていこうとしています。
それは読んで確認してみてください。

この本の最後に、
『だれが「本」を殺すのか』という本を書かれた、
ノンフィクション作家佐野眞一氏が後書きtおして寄稿されています。

その中で印象的だった部分を書いておきます。
(このブログは僕自身の備忘録でもあるので)

人類が営々として築き上げた叡智の結晶の書物を読まない限り、「個」は「個」のままで「類」にはなれない。そして、”読む力”は絶対に身につかない。ここで言う”読む力”とは、何も活字を読む力とは限らない。人は相手の気持ちも”読む”し、危険を察知する能力も、”読む力”である。”読む力”とは、人間にとって最も重要な身体能力のことである。

本は一冊では本にならない。
本はよく森や宇宙にたとえられる。一本の樹木では森にならず、一つの星では宇宙にならない。(p.337)

たくさん本を読むことで、できあがってくるものがあるわけですね。