本:声 ~記号に取り残されたもの~

僕は耳鼻咽喉科を生業としているからもありますが、
最近、五感-中でも聴覚、嗅覚、味覚や、声といったものに、
自然と意識が向いていきます。

本:『声 ~記号に取り残されたもの~』 工藤進,白水社
声
先日、大阪で本屋さんをぶらぶらしていましたら、
この本が目に入ってきました。

以前、
「声は鍛えたら変わる!」
なんてこともブログに書きましたので、
さっそく本を手にとってみました。
そしたら、中身はまったくもって予想外の本でした(笑)。
普通に買ったのですが、出版は1998年と結構古め。

筆者は、もともと言語学を専門にされているらしく、
本文は、フランス語を初めとするヨーロッパ言語の起源についての考察と、
国家や権力と言葉との関わりについて書かれていますが、
専門過ぎて内容はチンプンカンプン。

まあ、最後の方に、
プルーストの「失われた時を求めて」に関係するお話が書いてあって、
プルーストを読んだことのない僕でも
多少興味を引かれる所はありますが、基本的に難解。

ただ、この本の「はじめに」と「おわりに」については
すごく考えさせられるところがあります。

以下、少し抜粋してみます。

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かつて、木にも声があった。『木のいのち木のこころ』(草思社)の西岡常一さんは、こうした「木の声」がわかる人である。(中略)西岡さんの仕事を支えていたものは強烈な自負心である。こうした大工が尊敬されなくなったのは西岡さんによれば、西洋の学問が入ってきて、仕事師と建築学者が分かれ、「建築学というもんが幅をきかせて、木をいじる大工でない者が設計するようになった」明治からである。(中略)(西岡さんは)学者について次のような感想を抱く。「体験や経験を信じないんですな。本に書かれていることや論文のほうを,目の前にあるものよりも大事にするんですな。学者たちと長ごうつきあいましたけど、感心せん世界やと思いましたな」。
(中略)飛鳥の工人は当時すでに千三百年もたったひのきを用いてさらに千三百年以上ももつ建造物(注:法隆寺のこと)を造った。日本ではちょうど漢字を用いて日本語を表記しはじめ、さまざまな知恵の伝達が正確に、便利に、速くなったところである。飛鳥の工人の知恵はおそらく縄文時代から、一万年以上前から伝わる木についての口伝の知識から成り立っている。しかし製材技術が変わり、とくに明治以降、節があっても曲がった木でも平らにできるようになってから、木を割って平らにするする技術は無用となった。こうして一万年の知恵はたかだか百年の技術によって失われてしまったのだ。現代我々が近視眼的便利さを代償として見失ってしまったのはこうした技術だけではない。(以下略)
(はじめにより)

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そして、筆者は、「声」にもそうしたことが当てはまるのだと。
元来「声」というものは、
現代の我々が他の人々とのコミュニケーションのために用いる以上に、
もっと多くの情報量がそこには存在し、
それを人々は感じ取ることで、
色々な重要なことを伝承してきたできたはずなのだが、
文字の発達に伴い、視覚優位の時代となり、
「声」のもつ内容としての情報以外の情報などが、
どんどん抜け落ちていったのではないかと考えられるのだ。

少し長くなったので、続きは明日。