哲学ノート1

先日、金沢大学に入学したことを書いていたら、
その頃受けていた授業のことを思い出しました。
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関雅美(せきもとみ)先生の哲学の講義と、
井波律子先生の中国語の講義、

この2つは特によく覚えています。
頑張って講義のメモをとりました。
実は今でもこの講義のノート2冊は僕の本棚にあります。

特に哲学のノートは、
講義の時にほとんど口述筆記に近い状態でメモをとり、
家で書き起こしてノートにしたものです。
気合いの入り方が違います。
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まあ、よくもこれだけきちんとメモをとったものだなと、
我ながら感心します。
それと、昔はなんて字がきれいだったんだろうと、
これも感心します。今はもうこんな字、書けません。

講義では実存哲学として、
前期にハイデッガーと後期にサルトルを教えていただきました。
特に、ハイデッガーは好きでした。

以下、自分のノートからハイデッガーに関する部分を抜粋しました。
当時聞き取ったことだけなので、裏付けは確認していません。
間違っている所にお気づきの方はご教授ください。

<現存在(Dasein)>
「人間はある一定の時間的空間的な意味で、
”状況”の中におかれており、
そこから離れた人間というものは現実的には存在しない。
この状況というものは、いやおうなしに放りこまれたもので、
自分で選んだものでなはない。」


つまり,人間一人一人は、自分の意思とは無関係に、
この世界に生まれてきた(放り込まれた)存在
(<被投生(Geworfenheit)>存在)であると。

そして、この人間存在というのものは、
全き偶然性、不合理性というもの<不条理・不合理(Absurde)>を
示している。


つまり、その投げ込まれた(生まれてきた)現状というのは、
自分が好むと好まざるとに関わらず全く不合理なもんだと。

<死への先駆的覚悟(Vorlaufende Entschlossenheit zum Tode)>
そんなこんなで自分の意思と無関係に投げ込まれた現実、
これはつきつめて考えれば、人間の存在は有限だということ。
また、同時に、人間というものは孤独なものであると。

つまり、俺は俺、おまえはおまえ、自分というものは誰も代わってもらえない。
死というものを前にしたら、みんな孤独なものなのだと。

そして、人間はこの「現実の死」の前に先だって、
あらかじめ、自分の死を覚悟することが大切だと。

<日常的人間のあり方(Das Mann)>
上述の様に、
人間は死への先駆的覚悟をもって生きねばならないのだが、
実際には我々はそうした生き方をしていない。
世間に埋もれ、本当の自分というものを見失っている。
この状態をを頽落(Verfallenheit)と呼ぶ。

なぜ、人間は本来的な生き方をせずに頽落するのか。
それは、投被性のシンボルともいうべき死への存在というあり方からくる
不安Angustや不気味さUnheimlichkeitというものから逃れるためであると。


つまり、死というものはいつか必ず来る(確実性)と、
しかし、いつ訪れるかわからない(不確実性)という両面を持っていて
これが不安や不気味さを醸し出すのだが、
その不安や不気味さから逃れるために、
日常の生活に没頭することでごまかしているのだと。


つまりのつまり、ネットで時々目にします。
「明日死ぬと思って生きなさい。」
という、あれですね。

今、気になってネットで調べてみたら、
この言葉、マハトマ・ガンジー氏の言葉だったんですね。
知らなかった・・・。

実際には、そのあとに、
「永遠に生きると思って学びなさい。」
という言葉が続くようですが。